神の最高の関心の対象
2012/7/14
 今日RMさんがバプテスマを受けます。おめでとうございます。イエス・キリストの救いがこの地に広がることは大きな喜びです。天においても天使たちが喜びの讃美をささげるでしょう。感謝です。
 バプテスマは罪に対する死(清め)、キリストにあるよみがえり(命)、神とひとつになる(結婚)、魂の誕生などを意味するといわれています。原語のギリシャ語ではバプティゾーといい「漬(つ)ける」とか「浸(ひた)す」という意味があり全身を水につける儀式が行われています。
 東日本大震災、九州豪雨の報道を見ながら、私はなくてはならぬものに目を向け、時を用いているのかと自問せずにおられない思いです。人にとって最も重要なものが何かを考えさせられることが多いこの頃ですが、そのような中で神様と共に歩むことを選び、自分の事と同じように家族や隣人を愛し大切にする生き方を選ぶことは素晴らしい決断です。新約聖書でパウロ先生はテモテに対して次のように記しています。
 「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、のぞみをおくように、また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。」1テモテ6:17-19(口語訳聖書)
 エレン・G・ホワイトは「キリストの教会は、たとえ弱く欠陥があっても、主がご自身の最高の関心を寄せられる地上の唯一の対象です。主は、全世界の人々に、主のもとに来て、救いにあずかるように招待を出される一方、御使いたちには、悔い改めと赦しを求めて主のもとに来るどの魂にも天の助けを与えるように命じ、また、ご自身は、親しく、聖霊によって教会の真ん中に来られます。」(『聖霊に導かれて上巻』8ページ)とおっしゃっています。
 今こそ何が大切なのかを真剣に考える時です。私たちは神様の御心に従って生きる決断をすることによってキリストから特別な関心を持たれる存在となりました。神様から信仰、力、知恵を頂き、心に平安をもち、一人でも多く人が喜びに満たされた生活を歩めるように祈り、行動していきたいものです。
池宮城義一

どちらの祈りが聞かれたか
2012/5/12
 5月3〜5日セブンスデー・アドベンチスト教団・福岡教会を中心にユースレボリューション(青年革命)というプログラムが行われました。教団青年部長・柴田俊生牧師、西日本教区長・藤田昌孝牧師、教団教育局長・尾上史郎先生のメッセージを頂戴しながら青年の青年による全日本のための伝道を考えるプログラムでした。会場は福岡教会で、礼拝堂以外のあらゆる部屋に分散して宿泊し、5〜6人程度の小さなグループに分けて会場準備や食事のセッティング片付け、 ディスカッションの組分けなどをしました。初日は藤田教区長からのメッセージがあり「み言葉と家庭」についてのお話がありました。その中で献身の意味や日本の皆さんに救い主をご紹介できるのは私たちクリスチャンだけであるという観点から伝道はポテンシャル(影響力)とコミュニケーション(地域に交わる)、ワード(言葉)によってなされる。空のコップには空気が入るように私たちの心もみ言葉によって満たされていないと別のもので満たされる、別のものとはこの世の悪しき思いで、み言葉を蓄えることは大切であり、それを伝えることが重要な使命であるとのことでした。家庭については日本の離婚が三組に一組あるとのことから「自分を幸せにするために」結婚するより「相手を幸せにするために」結婚することの大切さ相手が幸せになるために工夫する。思いやり、助け、優しい言葉、心、耳、手、足、全身を使って相手の幸福のために奉仕する。男性と女性のとらえ方の違い、婚前交渉の驚くべき危険性や夫婦の行き違いの起こりやすいパターンなどを使ってわかりやすく結婚の大切なポイントを教えて下さいました。
 また翌日は尾上史郎先生が「どうやってキリストの福音を伝えるか」をお話し下さいました。「現代は感性社会」同じ物を売っていても売れる店と売れない店がある。感性の三要素、@気づくこと、A感動すること、B行動すること。その成功例が花咲かじいさんやこぶとりじいさん(陽気な人)・喜んで進んでする人、失敗例が欲張り爺さん・いやいやする、自分の利益のためにする。
 不思議なクリーニング屋さん・お客様の古いワイシャツのボタンがなくなっているのを見てメーカーにA4用紙にびっしりお客様に是非ボタンをお届けしたい思いを書き連ねて送ったらメーカーで回覧板になり、とうとう製造中止になったボタンを倉庫に見本で残っていたのを探しボタンをつけてワイシャツをお客様にお届けした。クリーニング代が安いわけではないがお客の絶えないお店。私たちの教会はどうやって伝道するのか。自分を磨く(主観)、お客様を知る、会う、聞く(顧客間)、うまくいっているところをよく見る(競観) アドベンチスト教会と出会えてよかったと思っていただくことができるかどうかは、私たち自身がそう思っているかどうかにかかっています。
 青年のプログラムで印象的なお話がありました。「どちらの祈りが聞かれたか」というお話です。記憶していることに基づいて書きますので細かいところがちゃんと表現できないと思いますが大体このようなお話しでした。二人の青年が船の難破で島に流されました。どちらの祈りが聞かれるかということで別々の場所で生活することになりました。おなかがすいてきたので「食べ物を下さい」とお祈りしました。A君には食べ物が与えられました。しかし、B君には何も与えられませんでした。一人でさびしくなり「友達を下さい」とお祈りをしたらA君には同じように難破した船から流されてきた女性Cさんが与えられました。しかし、B君には誰も与えられませんでした。島での生活が大変だったので脱出できるように「ボートを下さい」とお祈りしました。するとA君にボートが与えられました。A君はB君に知らせることなくCさんと共にボートに乗って島を離れました。すると神様から「なぜB君をおいて島を離れるのか?」と声がありました。A君は「はい、B君は祈っても、祈っても答えられないので神様からの祝福を受ける必要がないのかと思いましたから」と答えました。すると神様が「B君はいつもあなたが祝福されるように祈っていました。あなたに与えられた食物もCさんもボートもB君の祈りによるものなのですよ。」とおっしゃいました。
 私はB君がA君のために祈っているというところで感動してしまいました。自分の祈りがB君の祈りよりも優れていると思っていたA君のためにB君は一生懸命祈っていたのです。自分が島に取り残されてもB君はきっとA君のために祈り続けたのではないでしょうか。簡単ですがこれで青年大会の報告とさせていただきます。池宮城義一

価値ある存在
2012/4/14
 あるデパートの無料の展示コーナーで、ハワイの浜辺などを描いている版画家のクリスチャン・ラッセンさんの作品を見たことがあります。ギャラリーの真ん中に一つの絵があり、販売員の人が、「ごらんください」と言って、ライトを絵の上から下へ、下から上に当てながら、「こうやって光を当てると、何万色も塗られているのがわかります」と説明してくれました。 その時、絵の中の景色が動きはじめたのです。光の角度によって、次々に情景が変わり、イルカの頭の上から水が流れ、海がきらきら乱反射しはじめました。私の気持ちとしては「本物を買わなくてもポスターで十分絵を楽しめる」という思いがありました。しかし、実物を見て、本当にすごいと思いました。ポスターと本物の違いは予想以上の差がありました。皆さんは、自分はポスターぐらいの価値しかないと思ったことはありませんか。しかし、神様の目には、あなたは素晴らしい存在なのです。イザヤ書43章4,5節(新改訳)を読んでみましょう。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」。私たち一人ひとりは、神様から与えられた素晴らしい価値をもった一人ひとりなのです。神様からこのように見られているのです。
 精神科医ホルヘ ブカイ(翻訳・麓 愛弓)が書いた『寓話セラピー・目からウロコの51話』という本に次のような話があるそうです。一人の若者が、救いを求めて一人の賢者を訪ねます。「先生、私は自分がつまらない者に思えます。人々から、役立たずと言われたりして・・・」。 すると賢者は言います、「あっ、すまんのう。わしは今困っていることがある。そのあとなら手伝えるかもしれない。」そう言って、賢者は左手の薬指から指輪をはずし、「これをもって市場へ行きなさい。金貨一枚以下の値段で売ってはいけない」と命じました。若者は市場へ行き、指輪を人々に見せました。百人以上の人々が興味を示しましたが、「金貨一枚」という値段を示すや否や、誰もそっぽを向きます。賢者のもとに帰った若者は報告します。「すみません。金貨一枚もらうのは無理でした。銅貨一枚か二枚なら売れるかもしれませんが」と。すると賢者は、「まずは価値をしらなければ。今度は宝石商へ行け。しかし、今回はどんなに高くても売ってはならんぞ!」と言い渡します。若者が宝石商のところへ行くと、宝石商は指輪を鑑定して、「今すぐ売りたければ、金貨五八枚しか出せない」と言います。 若者は興奮して賢者の所に戻り、報告します。「しばらく待ってくれるなら七〇枚まで出そう、と言われました」と。その時、賢者は若者に言います。「お前は、この指輪のようなものじゃ」と。
 専門家だけが、価値を見抜けるのです。クリスチャン・ラッセンさんの版画絵、賢者の指輪どちらもその価値を知らない素人には取るに足らないもののように思えるのですが、専門家は目の付け所が違います。一瞬にしてその価値を見抜きます。私たちは自分たちの価値をどのように見ているのでしょうか。神様は私たち人間を創造された方すなわちメーカーですから私たちのことを良くご存知です。私たちには欠点や失敗、うまくいかない人生の問題もあるかもしれません。しかし、イエス様のゆえに、そのすべてを合わせてもなお神様は私たちを宝物、価値ある存在として受け入れて下さるのです。池宮城義一

小さき者メッセージ
2012/3/10
 以前大阪センター時代に藤田昌孝牧師が書かれた記事をご紹介します。
 「『いかに幸いなことでしょう/弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき/主はその人を逃れさせてくださいます』(詩篇41:2)。神様の思い、神様の視点はいつも弱いところに向けられているようです。『また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた』(マタイ9:36)。イエス様の目が注がれている所は、華やかな所ではありませんでした。美しい所、力のみなぎった所、優秀な所ではありませんでした。イエス様の目が注がれている所、そこは、弱り果てている所、打ちひしがれている所でした。『主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる』(詩篇34:19)。とある通りです。
 知的障害者と健常者が共に生活する『ラルシュ共同体』の創設者である、ジャン・バニエという方が、インドのバンガロール市で、ハンセン病の患者さんの包帯を取り替える目的で、マザー・テレサのグループに属するシスターのお手伝いをされた時のことです。そこの人々は、足も鼻も、指先までもくずれてなくなり、もはや手のほどこしようもないくらいでした。彼は何もできず、せいぜいシスターたちにハサミを渡すことぐらいしかできませんでした。また、なんとかそこにとどまり、患者たちの目を見つめることはできました。
 人々は、手足の感覚がまったくなくなるために、ネズミに足の指を食べられてしまっても何も感じません。また足の裏に釘が刺さっても痛みを感じないので、腫れ物ができ、壊疽ができたりもします。
 しかしジャン・バニエは驚きます。ハンセン病にかかった人々は、外側のそのような悲惨な様相にかかわらず、なんと、皆が笑っていました。体は膿や泥でおおわれ、悲惨な状態にもかかわらず、そこに彼は、何とも言えない、美しさを感じるのです。彼はその中で、深い平安と喜びを感じるのです。その感覚があまりにも強く、自分が喜びでいっぱいになってしまうため、彼はそんな自分を許すことができませんでした。悲惨な状況下で、喜んでなどいられるはずがないからです。そこで、彼は、いっしょにいたカナダ人の看護師さんにそのことを告白しました。『私は今、喜びでいっぱいで恥ずかしい』。すると、こういう返事が返ってきました。『私もあなたと同じです』。彼女も、彼と同じ体験をしていたのです。
 ジャン・バニエは感じました。『ああ、これは、イエス・キリストのご臨在のしるし、神様の存在を示すしるしなんだ』と(『小さき者からの光』より)。
 神様の思いは低い所に注がれていました。神様は低き、小さき人々の中に共にいてくださいました。そして低きところ、弱きところ、小さきところにその存在を現してくださるのです。
 次の歌は、シドニー・カーターという方の作詞作曲、『わたしは物乞いのように来る』です。
私は物乞いのように来る 手に贈り物を持って
私は飢えた人々によってあなたを満たそう
貧しい人々によってあなたを富まそう
傷ついた人々によってあなたを癒そう
さあ 言ってごらん どちらが本当に豊かか?
私は囚人のように来る あなたに鍵を渡すために
助けの必要なあの人は あなたへの私の贈り物
私は飢えた人々によってあなたを満たそう
貧しい人々によってあなたを富まそう
傷ついた人々によってあなたを癒そう
さあ 言ってごらん どちらが本当に豊かか?
 神様は弱い人々の中にその存在を現して下さいます。そしてあなたの弱さの中にも、あなたの低いところにも、あなたの小さいところにも、その存在を現して下さいます。
「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました(2コリント12:9前半)。」
 弱ることは神様の力と協力する最大のチャンスということなのですね。

再臨への備え
2012/2/11
 ギリシャの国家破綻によるユーロ危機、火山の噴火による欧州諸国の交通麻痺、チリ・中国でも被害のあった大型地震の脅威、そして昨年3・11の東日本大震災と世界は終末の前兆に満ち溢れています。不安を感じる一方で再臨信徒はイエス様がお出でになる日が刻一刻近づいているという期待感を膨らませています。決して今の不幸な現状を喜んでいるわけではありませんし、経済の変動や失業者の増加、政局の不安定など実生活では心おだやかでない事が多いことも事実です。
 古代イスラエルの人たちはイエス様の初臨を迎える時、ローマ帝国支配下で悲鳴を上げるような状況におかれていました。人々は救い主の登場を待ち焦がれていました。しかし、実際にイエス様がお生まれになった時に人々は驚き怪しんだと書かれています。
 私たちは今、イエス様のご再臨を目前にしてどのような準備をしていったら良いのでしょうか。様々な準備があると思いますが、今回は三つの事を取り上げたいと思います。
 1、まず大切なことは、イエス様が「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ十三ノ三四)とおっしゃったことを心に留めることです。私たちの準備は何かを取得したり、成し遂げたりする前に、イエス様と同じように、家族、仲間、人類同胞を心から愛することができるように聖霊様におすがりする事ではないでしょうか。愛する事は忍耐の要る事ですが、愛は必ず伝わります。
 2、み言葉の学び(愛されている事を確認する)…聖書の通読、証の書通読、暗唱聖句、注解書や聖書辞典によってみ言葉を調べる。教課研究(聖書研究ガイド)を継続するなど。み言葉を楽しみ、励まされ、喜びながら生活する事はご再臨を目前に控えた私たちにとってふさわしい事ではないでしょうか。信仰の肥料を絶やさないようにしましょう。現代の真理、私たちの使命についてはっきりとした信仰をはぐくみましょう。
 3、祈り(愛されている事を体験する)…今、祈りが問われている時代かもしれません。何を祈っているのか、どのように祈っているのか注意したいと思います。祈りの内容としては、感謝の祈り、和解の祈り、とりなしの祈り(家族の救いなど)、お願い事(いやし、健康、祝福)、そして伝道の完結についてなどがあると思います。
 ところで祈りの時間は皆さんにとってどのような時間でしょうか。神様に背負ってきたものを全て明け渡す事ができているでしょうか。祈りが義務的に感じられる事もあるかもしれませんが、祈り続けていただきたいのです。平安と喜び、神様への信頼が心の中に宿るのを感じるまで祈り続けていただきたいのです。不満を漏らす必要が無くなるほどに神様に打ち明ける事は難しいことかもしれませんが、短い時間であっても心ゆくまで神様とお交わりしたいものです。
 「神様あなたはどうお考えですか。」「私に何を望まれますか。」「あなたの御心はなんでしょうか。」と神様のみ声を聴くゆとりがあると本当に素晴らしいと思います。再臨に備えて神様の救いのみ業を心にとめて歩みたいと思います。マラナ・タ「主よ、来てください」(新約聖書1コリント16:22) 池宮城義一

かたわらにあって助けて下さる
2012/1/14
 なぜ、落ち込んだ人が元気になったり、人生をあきらめていた人たちが力強く生き生きと歩みだしたりするのでしょうか。私たちに生きる力を与えて下さるものは何でしょうか。
 教会でないがしろにされやすい子供たちの救いをターゲットに伝道しておられる愛隣チャペルのメビックセミナーにて、子供たちが教会とのかかわりでどんどん元気になっていく証を聞かせていただきました。はじめは、子供たちにゲームをさせたり、プレゼントをあげたりすることで200人あまりの子供たちを集めていると誤解をしていました。
 セミナーに行って学んだ事は、愛隣チャペルのスタッフの皆さんは心から神様に献身して子供たちをイエス様と同じように愛して大切に見守っておられ、神様の働き人として小さいときから育成しておられると言う事でした。「カウンセリング」と言う項目で、このような質問がありました。「カウンセリングで一番大事なことは何でしょうか。」答えは「カウンセリングは聖霊の働きであると言う認識が・・・一番大事なことです。・・・私たちは今すぐ結果を見たいと思うけれど、聖霊様がカウンセリングで働いて下さるということです。お友だち(教会の子どもたちの事を愛隣チャペルではお友だちと言っています) を説得するのでは・・・その時は説得されて、受け入れたように見えても本当に受け入れてはいないことがある。」
 通常カウンセリングでは話しておられるその人が何を言わんとしているかを聴きくそうです。言葉や行動の中からその人の本心を読み取り、その人の心の整理をお手伝いして元気になっていただく、問題に気付き自分自身で立ち上がる力が出てくるのをお手伝いするのですが、メビックのカウンセリングの中ではそれに加えて聖霊の神様の働きを求め、神様の声を傾聴することが加えられていたのが新鮮でした。
 カウンセリングをするのにはいくつかのルールがあり、技術が必要である事は確かなのですが、クリスチャンとして「カウンセリングは聖霊の働きである。」と言う事を忘れてはならないと思いました。聖霊はギリシャ語でパラクレートス(かたわらにあって助けて下さる方) です。いつもそばにいて私たちを助けて下さる方なのです。
 愛隣チャペルの講義の中でのお話しです。あるお子さんが「お父さんと私を捨てて行ってしまったお母さんを赦さなきゃいけないんだよね。」とカウンセラーに聞いたそうです。「・・・」この時そのカウンセラーは何も言えなくてその子の肩を抱いてあげました。お友だちにある現実を受けとめ、お友だちの心に添っていく。受け入れられると自分でイエス様の働きかけに従っていく。」「お友だちは本当の自分を知ってもらいたいのです。成績の悪い自分、学校に行きたいけれどいけない自分、いじめられている自分」「『いじめられている子に対してプライドをもってやり返しなさい。』とか、『神様の子どもなのだから赦しなさい。』などと子どもの気持ちを無視したアドバイスをしてしまいがちになる。」
 神様は私達の弱さもまた良く理解して下さる方ではないでしょうか。私達の心を無視したアドバイスや対応を受け、傷つき、元気がない時、私達の真のカウンセラーであられるイエス様の声を聞き、共におられる聖霊様の癒しを頂戴したいと思います。 池宮城義一

心おののく人びとに
2011/12/10
 近年いやしを求めている人が多いようです。なぜ疲れている人、傷ついている人が多いのでしょうか。そこにはたくさんの原因があると思いますが、その原因の一つとして、加藤諦三著『心の休ませ方』の中に親の甘えを受け止める子供たちの中に不満が募り、疲れがたまると次のように書かれています。「母親が『ケーキ食べる?』と聞く。子供は、本当は食べたくない。でも『食べたくない』と答えた時に、母親がどのくらい不機嫌になるか体験している。そして、不機嫌の後、さらに延々と責めさいなまれるという地獄の体験をしている。そこで小さい頃から、『ケーキ食べる?』と聞かれた時には、考える余地なく、喜ばなければならない。」子供たちは欲しくもないアイスを「おいしい」といって食べ、おもしろくないのに笑顔で答えるのだそうです。そのために精神疲労がつのっていき、大人になってもノーと言うトラウマから逃れる事が出来ずに人の機嫌を気にする。その結果人と会うのが疲れるそうです。
 イエス様が与える自由は、人と人の交わりを変化させてくださいます。疑い深かったトマスは信じるものになる幸いを得ました。パウロは当時のユダヤ人社会ではエリートであったパリサイ派としての誇り以上に自分を発揮できる伝道者としての道に導かれました。
 「雷の子」との異名を持つ12弟子のひとりヨハネは人との付き合いに疲れてなのか、いつもイライラし、あたかも雷のようでした。私たちもイエス様の与える自由から離れる時、ヨハネの持っていた弱さを経験することはないでしょうか。神様はイザヤを通して心おののく人々に恐れぬよう励まし、神様が来て私たちを救ってくださることを語っておられます。
 「あなたがたは弱った手を強くし、よろめくひざを健やかにせよ。心おののく者に言え、『強くあれ、恐れてはならない。見よ、あなたがたの神は報復をもって臨み、神の報いをもってこられる。神は来て、あなたがたを救われる』と。その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。それは荒野に水がわきいで、さばくに川が流れるからである。」(イザヤ35:3−6)
 この聖句は直接的にはご再臨の光景を指していますが、インマヌエルなるイエス様は、私たちと共にいて下さり心おののく人々の祈りを拒まれることなくその本心を受け止めて下さることを示しています。さらに、そのまま疲れた私たちを受け入れて下さり、私たちの周りにいる方々も受け入れて下さり、いやし、力強く支えて下さいます。イエス様との交わりによって、じっくり人の話を心から受け止め、共に喜び、共に涙するエネルギーが備えられます。「私にはもう無理、出来ない」と投げ出していた人びとに歩みだす力を与えて下さいます。
 のちに弟子のヨハネはイエス様との交わりにより雷のような激しい気性が消え、「イエスに愛された弟子」と呼ばれるようになりました。
 インマヌエル「神われらと共にいます。」 私たちが心おののく時にもイエス様は「私は共にいる。恐れることはない。私はあなたを救う」とおっしゃっているのです。 池宮城義一

託されたまなざし
2011/11/12
 私たちは自分の過ちに気が付き難く、人の過ちを良く見つけることが出来る不思議なメガネを持っています。そのメガネは、また自分自身の悪いところを良いところよりも多く見つける特徴があります。その間違ったメガネですべてを決めてしまわずに、イエス様の用意されたメガネで人も自分ももう一度見直してみる必要があります。イエス様は私たちを裁くためではなく救うために地球においでになられました。
「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。・・・」1テモテ1:15
 イエス様の暖かいまなざしは私たちに託されています。私たちのまなざしがイエス様のように優しく輝くことを師匠であるイエス様は望んでおられます。私自身は、イエス様のお手本通りに生きているとは決していえない存在ですが、このような、どうしようもない人間を救うためにもイエス様は来てくださいました。
 「人生ゲームの勝者は負け知らずの人ではなく、負けを幾度も経験しながら、それを勝利への踏み台と考える人である。」という言葉があります。神様が私たちを支えて下さる事を信じ、失敗する事は数多くあるとしても暖かいイエス様のまなざしを忘れないでいたいものです。
「自分の義務を忠実に果たす人について、『わたしたちは神の同労者である』( 1コリント3:9)と言われています。神の助けがなければ、人はほとんど何もできません。しかし天父とみ子は、奉仕の祭壇にすべてを捧げるすべての人を通して、喜んで働いてくださるのです。すべての人は神と協力し、神に受け入れられる働きをすることができるのです。」(セレクテッド・メッセージ128ページ)
 「主は倒れる者をみなささえ、かがんでいる者をみな起こされます。すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます。」詩篇145:14−16(新改訳聖書)
 イエス様は私たちをお用いになりたいのです。私たちの働きを必要としておられるのです。私たちが人々を励まし、力づけ、支えるために必要なすべてを神様は私たちのために用意しておられるのです。不十分に見える私たちを補って余りある方イエス・キリストを通して私たちをあがない、聖霊様を通して常に祝福して下さいます。イエス様が用意されたメガネを通してもう一度私たち自身も周りの状況もゆっくり見回してみたいものです。イエス様が私たちに託されたまなざしをもって。池宮城義一

カラスが残してくれたもの
2011/10/15
 あるユダヤ人のジョークに神様は平等かそれとも不平等かという話をしている二人の人の話があるそうです。神様は不平等だと主張する人が「鳥は飛べるけれども、牛には羽がなく飛べないから不平等だ」と言っていました。その時、鳥が飛んできて頭の上に糞を落としたそうです。それまで不平等だと言っていた人がそれで、「神様は平等だ」と言ったというのです。おそらく牛が飛ぶと顔が隠れるくらいの大量の糞が落ちてくることを想像したのだと思います。
 一生懸命やったのにどうしてだろうと思う経験をする事があります。神様が平等であろうか。ちゃんと私たちの歩みを見て、支えて下さっているのだろうかと思うことがあります。
 昨年の夏、北浦三育中学校の班農業でトウモロコシを植えた畑がカラスに荒らされていました。せっかく育ててきたのにちゃんと熟して黄色くなる前に食べてしまいますので、なかなかキレイなトウモロコシを収穫できませんでした。悲しい気持ちになったのですが、神様が彼らを養っているのだと思うと食べかけのトウモロコシの皮をむいて食べやすいようにする事にしました。そして、よく見ると所々カラスが残してくれたトウモロコシがありそれを集めると丁度必要な分が与えられました。
 私たちの歩みの中でもカラスが残してくれたもののように神様が私たちのために特別に取ってある祝福があるのではないでしょうか。イエス様は野の花、空の鳥(カラス)をさして私たちのことをいつも心にとめておられる父なる神様のことを教えて下さいました。私たちの生活の中でも神様はカラスに食糧を備えておられるように私たちにも祝福をご用意下さっているのです。
 「主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。」口語訳聖書エレミヤ書29:11−14
 エレミヤに預言が与えられたときダニエルたちはまだ捕囚になったばかりの青年だったでしょう。どんなに祝福すると約束されても信じがたいほど国はボロボロでバラバラでした。しかし、ダニエル書9章2節に「…われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終るまでに経ねばならぬ年の数は70年であることを、文書によって悟った。」と記しています。ダニエルはエレミヤの祝福を老齢になってもなお信じ続けたのです。
 私たちの神様は平等でしょうか。それぞれの必要は異なりますが神様の祝福のご計画は一貫しています。 池宮城義一

主を知る
2011/9/10
 夏休みが終わり、幾分涼しさを感じる朝夕を迎えるようになりました。皆様お変わりございませんか。
 鹿児島教会のニュースレター「燃える櫻島」が200号となりました。おめでとうございます。創刊より16年8ヶ月にわたりご投稿下さりこの教会誌をお支え下さいました皆様方に心から感謝申し上げます。
 また、編集に携わってこられた方々には御苦労も多かったと思いますがここまでお支え下さり、神様のみ業を宣べ伝える働きをご継続下さいましたことを心から感謝申し上げます。
 現編集長のYKさんのご奉仕にも改めて感謝申し上げます。多くても少なくても困ってしまう記事を上手にまとめあげ、定期的に発行して下さり有難うございます。
 読者の皆様にも感謝申し上げます。皆様が喜んでお読み下さるので「燃える櫻島」が継続できます。これからもどうぞご愛読下さいますようお願いしたします。
 話は変わりますが、今回8日間の日程で韓国の再臨祈祷院に行ってまいりました。たくさんのお恵みをいただきましたので何らかの形で「燃える櫻島」読者の皆様にもお恵みをお分けしたいと思います。
 今日は開会式に祈祷院委員長の金進英牧師のお話をご紹介したいと思います。
先生は歴代誌下20章のヨシャファト王の経験をもとに神様を知り、神様に頼ることの大切さを教えて下さいました。
 神なしで生きる人の三パターン
一.敵が強いと準備する人(相手を倒す確信の持てる力を必要とする人)
二.失望する人(自分には勝てないとあきらめる人)
三.自分が頼るものを求めてさまよう人(お金、地位など自分以外の何か頼りになるものを捜し求める)
 主に従う人の三パターン
一.「主よ、主よ」と呼ぶだけで恐れる人(自分の主を知らない人)
二.足りない時に求める信者(困った時の神頼みをする人)
三.大きな問題があると神様が大きなことをして下さると信じる人(神が誰かを知っている人)
 歴代誌下17章を見るとヨシャファト王にはたくさんの兵隊がいたようです。そこでは、自分勝手に考え、預言を退け神様の方法ではなく自分の方法で戦いに挑み失敗しています。
 ところが、20章では、対応が変わりました。ヨシャファト王は神様が誰かを知っていました。問題を解決する偉大な力を持っておられる神様に信頼することを知っていました。ご存じの通りヨシャファト王は主を讃美することで勝利を得ました。
 神様が私たちに望んでおられることは主を知ることです。主の摂理、ご計画、何をなさるお方であるかを知ろうとすることが求められているのです。
 鹿児島教会100周年の年を迎えている私たちに神様が求めておられることは、神様と対話し、神様の教え、導き、聖霊様の声を聴く姿勢と生き方ではないでしょうか。あらゆる問題や課題がこの方によって一つ一つ解決し勝利するのを目撃する者となりましょう。池宮城義一

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