ヤコブの手紙
2014/10/13
今年度第4期、聖書研究ガイド「ヤコブの手紙」が新しく始まりました。皆さまの期待はいかがでしょうか。このヤコブは主イエスの兄弟です。もう一人います。それはユダ、「ユダの手紙」を書いています。新約聖書の著者として、主イエスの兄弟が二人も名を連ねていることは
素晴らしいことです。三十年近くも同じ家庭に苦楽をともにした兄弟たちが、主を理解しなかったのです。時には狂人扱いもしました(マルコ3:21)。この方こそイスラエルの望み、全旧約預言の目標、大能の神のお姿の現れとは、あまりに事が大きすぎて理解できなかったのでしょう。
彼らは最後の晩餐の席にも加わらず、ゲッセマネにも行かず、カヤパの法廷にも、十字架の下においてさえその姿は見えず。それゆえ主は、寂しく痛む胸をいだいてかたわらに立っている母マリヤを見て、愛弟子ヨハネに母を託さなければなりませんでした(ヨハネ19:26)。たとい三十年の生活をともにしても、天の啓示なしには、血肉は主を知ることはできないのです。
 ではヤコブはどうして導かれたのか。よみがえりの主に会う、これがヤコブの生涯の転機となったことを聖書は伝えます(第一コリント15:7)。ある文書には「主が十字架につけられてから、ヤコブはいろいろなうわさを聞くにつけても、その心が不安に耐えず、悩み続け、食べることも飲むこともせずに、よみがえりの主に接する時に至った」とあります。ペンテコステの待ち望みのときには、弟子たちの群れの中に彼の姿もあります(使徒1:14)。こうして救われたヤコブは、教会の中心人物の一人となるのです。ペテロやヨハネとともに教会の柱として重んじられ(ガラテヤ2:9)、エルサレム会議の議長を務め(使徒15:13)、パウロも何はさておきエルサレムに行ってヤコブに会う必要を感じ(ガラテヤ1:19)、さすがのペテロも、ヤコブに対してはいつも一目おいていた様子が聖書を見ると伺えます(ガラテヤ2:12、使徒12:17)。
ダビデの血筋を受けたきっすいのユダヤ人であったヤコブは、やがては「義人ヤコブ」と呼ばれるようになります。きわめて信心深く、そのひざがらくだのひざのようになるまで、ひざまずいて祈ったと伝えられています。謹厳な生活をし、律法の一点一画もなおざりにしない実行の人であったことは、この「ヤコブの手紙」を学ぶ時、私たちは気づくでしょう。彼は純粋なユダヤ人にキリストの霊を打ち込んだような人物でした。「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:17)。彼は実行的宗教を強調しました。鋭い目で教会の隅々を見、そして信仰を口にしながら実行の伴わない者の多いのを見て、彼らの生活の細かな点にまでも突っ込んで警告を与えました。
 今期、私たちはこの「ヤコブの手紙」を学びつつ、大いに心探られるのではないでしょうか。その信仰が知的となり、感傷的となりやすい私たちにとって「喝」を与える一撃の学びになると思います。有難いことです。
 ジョン・スミスという人がかつてある教会で、礼拝説教を頼まれ、その題を求められたとき、彼は「ヤコブの手紙」と答えました。会衆はヤコブの手紙についての話であろうと思ったのですが、彼はヤコブの手紙の1章から5章までを力強くただ暗唱しただけでした。しかし聖霊は著しく働き、全会衆は砕かれ、溶かされ、涙とともに悔い改め、それがリバイバルの導火線となったと伝えられています。来年は「鹿児島15」の年になります。この学びが私たち信徒にもリバイバルの導火線につながることを切に祈ります。

森 博光

全日本15
2014/9/13
 この「全日本15」は、実は昨年のニューヨーク大都市伝道に端を発しています。そして「ニューヨーク13」と名付けられた伝道は素晴らしい結果を生み出しました。公式報告によると、信仰告白を含め5,292人の決心者、53ヶ所に新たな教会・集会所が設立するに至ったということです。そしてE・G・ホワイトの「ここ(ニューヨーク)でなされる全てのことを主が世界中で行われるようにと望まれる働きの象徴としなさい」とのチャレンジを受け、この働きが引き継がれていくことになりました。ニューヨークの大都市伝道が始まったのが2013年なので1
3を付けて「ニューヨーク13」と呼びます。昨年同じ年に、また東京でも持たれることになったので「東京13」となります。伝道が遅れている日本ですが、SDA教団世界総会は次にこの日本を選び世界中の祈りの応援のなか実施したのです。その報告結果はアドベンチストライフでも発表されたように、洗礼を受けた人が87人与えられました。これは例年のバプテスマの200パーセントに当たる驚くべき数の収穫でした。これが日本で、来年2015年に「全日本15」として各教会・集会所・聖書研究会が取り組むことに繋がっているのです。
 ですから2015年は「鹿児島15」の年となります。皆さん、ワクワクしませんか? 素晴らしい鹿児島教会の更なる明日への幕開けですからね。教会員みんなでそれこそ一つになって進んで行きたいですよね。その準備を今から鹿児島教会は考えているのです。
 先日、熊本教会に九州地区の全教会が信徒代表を送り「九州地区リバイバル集会」が持たれました。テーマは「全日本15」各教会取組みについてでした。熊本教会(地元)信徒は15名の参加、ついで鹿児島教会信徒参加は11名でした。こういう大切な集会では、その教会・集会所の意気込み・取組み姿勢がその参加人数に大きく繁栄されるものです。その点で鹿児島教会は片道2時間も掛けて11名が参加したのですから、意味あるスタートを切れたと思います。
さて皆さん、「全日本15」はあなたにとって何を意味していると思いますか? その答えが今回の集会にありました。「全日本15は、あなたがキリストの再臨を迎えるための、あなたのプログラム」だということです。ニューヨーク視察から帰ってきた伝道局長花田憲彦先生はこう思ったそうです。「日本は伝道が困難な国ではない。決して易しくはないがそれ以上に、日本は伝道をしなくなってしまった国という印象を受けた」と。私たちは頭の隅で日本の伝道は困難という言い訳に甘んじていないか。伝道の働きに全身全霊で献身することなく言い訳を言い続けてはこなかったか。そのことに私たちひとりひとりが気づいて、目覚めさせて頂くための絶好の機会、それが「鹿児島15」となるのではないかと思うのです。
 8月は2週に渡って安息日午後から「鹿児島15」の相談会を、教会員の皆さまに呼び掛け持たせていただきました。20名以上の方々が集まって下さり、具体的なこれからに繋がる実りの話し合いができました。まもなく「鹿児島15」の事務会も持たれますのでそのとき報告させて頂きます。
この「鹿児島15」に先駆けて現在「阪神14」がなされています。選ばれた3教会(大阪センター教会・大阪東部教会・神戸教会)が今年この取組みに挑戦しているのです。その中の一つ大阪センター教会が「10日間の祈り」を実行したのです。外国人のメンバー数人らが、1/8(水)〜17(金)まで毎日夜7時から教会に集まって祈り、18日(土)は徹夜で祈ったのです。平均すると毎日5〜6名が参加したのです。1人ずつ5枚のカードを参加者に配り、手にしたカードにある方々のため毎日祈ったのです。この「10日間の祈り」を終えてから結果が現れ始めたのです。信仰告白を含めて6名のバプテスマが与えられ、さらに1名が決心をされているとのことでした。「10日間の祈り」の前には0名だったのに、この祈りの後このような導きが始まっていきました。これは春までに起こったことですが、心一つにしていく時このような祝福があるのですね。私たちも祈りを忘れることなく、怠ることなく、主の働きに献身していきたいと思います。
 
森 博光

祈祷院研修
2014/08/16
 今、「祈祷院を日本に造ろう!」という思いが高まりはじめています。このことは昨年埼玉において教団主催で持たれた「国際リバイバル集会」の時、北朝鮮脱北者(女性通称:エステルさん)が出席されていて300万ウオン(約30万円)を日本の祈祷院設立のために献げられたことに端を発しています。
 この度、日本の広島三育学院で初めて持たれた祈祷院研修に鹿児島教会より信徒3名と牧師が出席し、尊い機会を得て参りました。毎朝晩の洪光義(ホンガンウィ)牧師より1時間半のメッセージを聞き、沈黙のなか個室でテキストや聖書に向かい瞑想し祈り、食事の時も隣同士沈黙を守り、ただただ神と共にある時を、私たちは1週間経験してきました。何より、世からしばし離れみことばに浸(つ)かり、信仰の本質に触れ、自己流の聖書理解の捕われから脱して主のみに向かうためには、是非ともこのような環境が必要であることを体感させられました。
 洪光義牧師からは全13回の聖書講義を受けました。テーマは朝が「十字架」、夜が「終末」。どれもが心にしみこみ、探られていく学びでした。洪牧師は神学生時代に、学びと労働ののちによく「各時代の希望」を持って山に登られたようです。それは“イエスを見させて下さい!”との一念からの行動であり、“見ない限りどうして伝えることが出来ようか!”との内なる激しい葛藤があってのことでした。『心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る』(マタイ5:7)。みことばと格闘し心の清掃をしたけれど、罪は無くならなかった。また出てくる。同じ思いが繰り返される。自分が罪の工場であることを思い知らされた。それが洪牧師の学生時代の姿でした。6年間たたかった。そして姦淫の場を捕えられた女(ヨハネ8章)と自分自身の姿とがまさに重なり合わさったその時、『わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』(ヨハネ8:11)とのお言葉に、自分を赦される主とお会いした、そう言われました。求めが受け入れられた瞬間でした。『顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった』(マタイ17:8)。
 なんという意味ある出会いでしょう。“イエスを見させて下さい!”との切なる願いが叶えられる恵みと涙と感動があることを教えられます。みことばはこの世界の宝庫です。このような証しをこそ、私たちも自分のものとさせて戴きたい、そう思います。私は洪牧師の証しを瞑想している時、次の聖句を思いました。『わたしが彼を近づけるので 彼はわたしのもとに来る。彼のほか、誰が命をかけて わたしに近づくであろうか、と主は言われる。こうして、あなたたちはわたしの民となり わたしはあなたたちの神となる』(エレミヤ30:21.22)。そしてあなたもこのチャレンジに召されているのです。
 また次の話も印象的でした。それは韓国であった9つの悪霊の話です。その悪霊に憑(つ)かれた女の人が教会に連れて来られました。それは、ある建物のために献金をしている時でした。彼女のために牧師、長老、執事が断食して3日間祈りましたが無理でした。落ち着かせようと手に触ると手が震える。牧師が触るとおとなしくなる。そのとき悪霊が言うのです。「お前は人なのに神ばかり見ているのか!」そして牧師に向かって唾を吐く。最後には悪霊は出て行ったのですが、出ていく時にこう言うのです。「聖書と讃美歌を持っているだけで神の民と思っているのか。ここには俺の民が大勢いる!」と。この教会には金持ちもいましたがその人は全然献げていませんでした。金をチラつかせば付いて来る、快楽を持ってくれば付いて来る。私たちは本当の残りの民にならなければならない。

アブラハム、その生涯
204/07/12
 今、教会ではアブラハムの生涯についての学びが始まっています。創世記1章から11章までは始源史(創世記の序章)です。そこには私たち人間の持つ根本的な問題性、人間の悲惨の真の原因が述べられていました。天地創造に続くエデンの園、アベルとカイン、ノアの洪水、バベルの塔、これらを通じて聖書が語ろうとしたのは、人間の悲劇と悲惨との原因は私たちが神の愛を信ずることが出来ないところから来ているのだ、ということでした。創世記12章からいよいよ本論(これは聖書全体の本論でもある)で、この人間に対する神の救いのみわざが述べられていきます。
 私たちが本当に神の愛を信じ、神によって与えられたこの人生は自分にとって最高の人生だ、と信ずることができたら、私たちは平安と感謝と喜びに生きることができるのです。ところがそれが私たちにはできなくて、神のようになりたいと思ったり、他人の人生と比べたり、嘆いたり恨んだりしてきました。アダムもエバも、カインも、ノアの時代の人間たちも、バベルの塔を建てた人々も、みんなそうだったのです。神になんか任せておけない、おれが頑張って自分の幸せを守らなくてはならない、そう考えるところに、人生の破滅、悲劇があったのです。
こうした人間に対して神が救いの手を差し伸べてくださった第一歩が、アブラハムの召命でした。「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて 私が示す地に行きなさい。・・・アブラムは、主の言葉に従って旅立った。」(創世記12:1、4)。本当ですか神さま、本当に故郷を出て大丈夫ですか、安全ですか、と聞きもしないで、愛の神がおっしゃるのだから良い所に違いない、とただ信じて、アブラハムは主の言葉に従って旅立ったのでした。「彼にとって、この地上で最も幸福な場所は、神が彼にいるようにお望みになるところであった」(人類のあけぼの上巻 124頁)。
 イザヤ26:19にこんな聖句があります。『塵の中に住まう者よ、目を覚ませ、喜び歌え。あなたの送られる露は光の露。あなたは死霊の地にそれを降らせます』。アブラハムは塵の中に住まう者でした。華やいだ町に住み、人並みに暮らしていたかも知れません。でも、それらは彼の人生に特別な価値、特別な目的を与えるものではなかったのです。彼の人生もまた塵のように踏みつけられ、石ころのように転がっているものでした。しかし、そのような塵の中から、神様はアブラハムを呼び出されました。ここはとても大切な点です。弟ハランの早すぎる死、それを悲しみ続ける父、子どもが生まれないことを悩み続ける妻、このような苦しみや悩みの中にあったアブラハムに、神様は「わたしが示す地に行きなさい。あなたを祝福する」と祝福への召しを語られたのです。アブラハムは塵の中から立ち上がり、その塵を振り払って、主の招きにこたえて旅立ちました。そこからただの石ころでなく、神様に召し出された特別な石にされる人生が始まったのです。
 私たちも「塵の中に住まう者」です。そしてその存在はどこにでも転がっている石ころです。でもバプテスマのヨハネは、こんなことを言いました。『神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる』(マタイ3:9)と。素晴らしいですよね。
アブラハムの生涯は、あなたや私への、深い主の愛とみ心がぎっしり詰まっているメッセージです。


救われるということ
2014/6/14
 『しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。』 (テトス3:4,5)

 あなたはキリストから何かを受けておられますか。人が信仰生活に失敗するのは、ほとんどと言っていいほど、その人が何も受けていないことに原因があります。救われているしるしは、その人がイエス・キリストから何かを受けたことがあるかということです。牧師の務めは、人々の目を開くことにあります。そのとき人は暗闇から光へと向きを変えていきます。しかし、目は開かれていてもまだ何も受けない人がいるのです。ではあなたが受けるべきものとは何でしょう。それはこのみ言葉によると、『新たに造りかえる洗い(再生の洗い) 』であり『聖霊によって新しく生まれさせ(聖霊による新生) 』なのです。あなたは神から賜物としてこれを受けておられるでしょうか。
アメリカの奴隷制度を廃止した人として有名な人といえば、第16代大統領に選ばれたアブラハム・リンカーンです。しかし残念なことに、それに偏見のある古い考えの白人の一人がワシントンDCの劇場のところで、リンカーン大統領を銃で撃って殺してしまいました。暗殺されたリンカーン大統領の遺体は汽車で彼の生まれたイリノイ州の町に運ばれました。
ワゴンの上に棺が乗せられ、その町の人々は、愛するリンカーンの顔をもう一度見ることができるようになりました。そのとき、一人の黒人が赤ちゃんを抱いて、その大勢の中に立って待っていたのです。リンカーン大統領の棺が見えたとき、彼女はその子供を高く持ち上げて大勢の人の前で子供にこう言いました。「子どもよ、よくよく見ておきなさい。この人はあなたのために死んで下さったのです」。
 人は自分の誓いや努力や決心で救われるのではありません。神から受ける賜物によって、すなわち言い換えると、イエス・キリストによって与えられる罪の赦しによって救われるのです。その救いの確信はこの黒人が赤ちゃんに「この人はあなたのために死んでくださったのです」と言ったあの言葉の意味と全く同じです。「キリストの十字架の死は私のためである」との確信こそが、あなたが救われるということの出発点です。
 次に重要なことは、『わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは・・・わたしたちも新しい命に生きるためなのです。』(ローマ6:4)とあるパウロの言葉です。古い命を埋葬せずに、完全な新しい命に生きることは不可能です。あなたは、自我にとっての地上最後の日を迎えたことがありますか。思いにおいては、そこに何度も達したことがあるかも知れませんが、現実にはどうでしょう。墓地の周辺はうろついても、自我に死ぬことを拒み続ける強いあなたがいます。しかし、『キリストの死にあずかる洗礼』によってそれがすでになされている事実をパウロは語ります。その死の中へ飛び込むことが本当の解放(救い)です。この「死の中へ飛び込む」ことをもう少し違った角度から説明します。
 私たちすべてはどうしても死に合わされなければ解決できない現実を持っています。それが具体的にはどういうことかと言いますと、この世界に本物の愛や真実がやって来ると不思議に人々はそれに対して反発をするということなのです。キリストがこられてまず衝突したのは、学者パリサイ人でした。キリストが愛のゆえに彼らの決まりきった律法を破られた時、彼らは激しい反発を示しました。また、あの群衆たちはキリストの周りに集まってその教えを聞いたわけですが、情勢が変わり自分たちの思う通りにならないと分かった時に、彼らは「十字架につけよ」と叫び出すほど変わってしまいました。キリストの弟子たちも極みまで愛されたイエスを結局最終的には捨てるという形でしかその愛に応えることはできませんでした。このように私たちは真理とか愛とかが迫って来ると、本当はそれを受け入れられない強い反発、「憎しみに満ちた否!」を発してしまう者なのです。主を愛していると思っていた自分がこのような真相に出会うこと、それがあなたの死の時なのです。その時こそキリストの葬りがあなたの死と同一であることの発見にあずかる時なのです。そしてそこからキリストの命に生きる始まりが、聖霊によって見事になされていきます。神のみこころが何かを知った時、あなたはごく自然にこの『新しい命に生きる』といわれる過程に導かれていくことでしょう。み霊の神がこの事実をあなたに明らかにして下さいますように。

私の信仰の原点
2013/5/10
 信者にもタイプがある。まず「手漕ぎ信者」一生懸命漕ぐけれど、いくら漕いでもそれにはおのずから限界があって、最後にはくたびれて「ああ、もうダメだ」とまいってしまうタイプ。次は「帆かけ舟信者」帆をあげ、風を利用して進む信者のこと。「キャンプミーティングだ」と言えば何かハッスルし始め、にわかに風が吹く。教会ではほとんど無風状態に近い。大会というとたちまち大きな風がどこからか吹いてきて舟は走り始める。しかし大会が終わると風もやんでしまい、舟はやがて走行不可能に。「そろそろ今度は、え〜と、青年大会だ」というとまた走り始める。しばらくすると止まるので講演会、次は修養会といった調子。これではちょっと困るのである。風があってもなくてもどんどん進む舟はエンジンを積んだ舟。そこに動力があるなら漕ぐ必要もなければ、風がなくても進む。それは内側にエンジンを持っているからである。さて、私たちはどのタイプの信者であろうか?
 信者におこるこのようなタイプ、そしてそこに潜む問題点というのは、まだ神のみこころが本当には自分のものになっていないことからくる違いなのではないだろうか。なぜそうなのかというと、それは聖書と同じ立場に立てないからである。もっとはっきり言うと、神中心で物事を見るのでなく、すべて自分中心で見ているからである。そして悲しいことに、この方向を自分で変えることは不可能であるように思う。また、聖書の用語(罪、神の義、十字架、ゆるし、復活、永遠の生命、聖霊等)も教会に来てはいても、その内容はやはり不可解のままであることが多い。
 だから、ぼんやり自分の家庭の事だけを考えて過ごしているような人、ひたすらもうける事に夢中な人、あるいは健康で遊ぶことだけを考えている人々には聖書の内容は到底わかりかねることであろう。ところが聖書をひもときつつ人生経験の底に罪があることを知って苦しむ人や、死におののいて悩んでいる人、自分で自分のことが本当にわかっていないという壁にぶつかっている人、自分の生きていることが人を自殺にまで追いやっているような存在であることを知っている人は罪とか、十字架のゆるし、復活の命、聖霊のみわざというものが不思議にわかってくるのである。このとき人ははじめて聖書の中で示されている命に触れ、自分がキリストの恵みにあずかったものであることを喜ぶことができるようになる。
 そのことに気づかされたのが帯広であった。そこは開拓伝道地で、その当時三育学院のキリスト教学科生であった私は、自分の伝道の未熟さをいやというほど思い知らされ早々に一年だけで帰りたいと思っていた。しかし二年目、ある事から文伝者としてののろしをあげることとなり、一人孤独の戦いに乗り出してしまったのである。そこで発見したのは、自分の内に巣食う古い習慣と、罪を犯そうとする生来の傾向が支配力をふるう姿であった。キリストを知って今、真の伝道者になる賭けをしているというのに、食べるための生活の苦しさ、たった一人という孤独感、伝道のための重荷、そして帯広の冬の極寒がいやがうえにもその思いをつのらせて、私は何度帯広の夜の町をふらついたことか。文伝で稼いだわずかの生活費も映画代に消え
ていった。灯油も買えなかった私の寒さをしのぎ、しばしの間孤独から解放し楽しませてくれる場所と言えばここしかなかったのである。
 これが伝道するためにとどまると言い切った私の真の姿であった。私はとうとうこんな自分の二重性に心底絶望してしまったのである。私は生まれて初めて自分の全存在をあげて叫びをあげた。「神さま、助けて下さい!」と。この時私はイエス・キリストの救いが、このような私のための完全な贖いであることを初めてこの身に悟らせていただいたのであった。そしてキリストを私の主としてこの時から私の心にお迎えしたのである。
 この経験は忘れることのできない信仰の原点となった。神のみ前に引き出され、神の光を浴びて、その手術台の上で己の罪とみにくさをすっかり暴露されることは本当につらいことである。しかしそこから真のキリスト者が誕生していくのではないだろうか。絶望を通して与えられるからこそ、自分が死んでキリストが生きてくださるという総入れ替えが行われるのである。十字架はキリスト教の中心と言われるが、しかしわかったようでわからない。しかし自分の罪に泣く時、あるいはいろいろな絶望経験を通して、今まで隠されていた十字架の意味が本当にわからせていただけるのではないかと思う。み言葉をそのまま自分の心に響かせたいものである。   森 博光

愚行反復
2014/4/12
 鹿児島教会に赴任して2週間が過ぎました。環境が変わり、働きの形態も牧師という働きから、園長、そして小学校チャプレンと広がって、全てが余裕なく全力疾走の日々でした。早天祈祷会で“もう自分青息吐息です”と言ったら、“まだ虫の息じゃないから大丈夫”と。“えっ、じゃぁ死んじゃうわ”と言うと“次は復活ですから”と返されてしまいました。励まされているのか、突き放されているのか、でもこんな微笑ましい謎かけが飛び交いつつ、兎にも角にも鹿児島教会での働きは順調??なスタートを切っております。
 「燃える櫻島」第一声のこの機会に、今の私(牧師として)の思いを紹介してみます。それは、ある時期に読んで心に深く残っているある牧師の告白の言葉なのです。
 私たちは、前方も背後も水平線によって視線を遮られ、それを突破できずに生きています。そして牧師の仕事は、越えることのできない水平線の中に閉じ込められた生活をしながら、その中にあって、水平線を越えた彼方を指さすことなのです。
「多くの人が牧師の手に握られた石を見ている。それは牧師の手にある石が水平線の見えない向こう側に落ちることを期待して、かたずを呑みながら、見つめる眼差しである。『とぼん』と音がした。でもその石が落ちたところは、牧師の足許からほど遠くないところである。人々は期待が外れ、がっかりし、牧師への期待は、たちまち憎悪に変わる。牧師の生涯というものは、こうした反復である。しかし真の牧師は、また新しい石をとって、水平線の彼方をきっと睨みながら、今度こそは、そこに届かせて見せるとばかり、思い切ってその石を投げるのである。むろん、その石もまた、足許数十尺の所に落ちるに過ぎない。しかし、彼はこの愚行をやめないのである。子供の遊戯でしかないこの愚行の反復に、彼の生涯を賭けているのである。そして、この愚行を見ていた人たちは、次から次にそこを去って行く。それでもなお去りかねて、見ている人々がいる。そのうちの一人が、牧師の立っている側にやって来て、牧師のやっていることをいかにももどかしく感じでもするかの如く、足許の石を拾って、全身に力を込めていきなり沖に向かって投げた。しかし、石は牧師の投げた石の落ちる場所よりも、更に手前の所に『しょぼん』と落ちた。もう一度、更にもう一度・・・。それはあの牧師と同様に空しい反復に過ぎない。その時、その人は牧師の愚行の意味を了解する。牧師の見ている水平線の彼方を、その人も又、傍観者であることをやめる事によって、牧師と一緒に見たからである」。
教会の働きも、実は水平線に向かって石を投げるようなものではないかと、つくづく思います。教会の働きに加わる意味は、見物人であることをやめて、自分も牧師と一緒になって「愚行」を反復することです。そうした時、必ず、水平線の彼方から真理が(神の驚くべき御業が)私たちの方へ近づいて来るのです。この経験を鹿児島教会の皆さまと見させて頂くこと、これが私の思いです。  森 博光

暴風の中で
2012/10/13
 信仰生活は穏やかに過ごしたいものです。しかし、人生には時として私たちの好まないことが起こるものです。今は亡き榎本保朗牧師の著書『祈りと瞑想への道』に次のように書かれています。
 「イエスさまが舟に乗り込まれ、弟子たちはそれに従った。すると突然、今まで静かであった海上に激しい暴風が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスさまが一緒であっても、暴風がくる。これはマタイ福音書8章の一シーンである。…わたしたちがキリスト教信仰を生きながら、平穏無事であり、万事都合よくいっているとするならば、それこそ危険信号である。海に乗り出さない者には、舟が波にのまれそうになるような不安は起こらない。
 …誰であっても、『助けてくれ!死にそうだ!』などと叫ばねばならないような境地に立つことを望まない。しかし、ここに立つ者だけが、イエスさまのお側に寄って『主よ、お助け下さい。私たちは死にそうです』と率直に叫ぶことができるのである。
 祈りとはこのような叫びである。だから、ほんとうの祈りはここまでこないものには出てこない。『祈ってばかりいたってしょうがないじゃないか』という人がいる。しかし、あの荒れ狂うガリラヤ湖上でそんなのんきな批判ができるだろうか。そこに立っていないからそんなことを口にするのである。
 イエスさまは『なぜこわがるのか。信仰の薄い者たちよ』とたしなめられた。どんな不安な時にも、こわがることのない人、どんな絶望の時でも、しっかりと主により頼むことの出来る人は、確かに祈る必要はない。その意味で祈りとは私たちの義の業ではない。
 弟子たちは、あれ狂う風と海とをお叱りになるイエスさまを拝して、『この方はどういう人なのだろう。風も海も従わせるとは』と驚きの声をあげている。主のゆえに『わたしたちは死にそうです。』というところに立つものだけが、本気で祈ることができる。またこうして祈るものだけが、風も海も従わせる主のご栄光を仰ぎ見ることができるのである。(1968年5月)」
 穏やかに過ごせないことが起こる時、私たちはイエス様から離れていると感じやすいのですが、祈りによってイエス様に近づく時であり、必死にイエス様に寄りすがる時であるのです。その経験を通して主のご栄光を見ることができるように神様はお導き下さっている。イエス様のために自分の働きをしようとすると反対の動きが始まります。優しく話し始めると「気持ち悪い」と言われたり、行動を変えると「今までどおりでいいよ」とささやかれたりするかもしれません。イエス様の教えに従うことは荒らしや逆風を感じる経験であるかもしれません。しかし、その時こそ祈りの神髄がわかるのではないでしょうか。私たちにはイエス様が必要なのです。池宮城義一

敬老の日に向けて
2012/9/15
 9月17日は敬老の日です。高齢者の皆さんはどのような時代を生き抜いてこられたのでしょうか。それぞれのご家庭で事情はいろいろ異なると思いますが、明治、大正、昭和、平成と時代は移り変わり今では想像することもできないような不自由や不安を感じる経験をされ、伝道活動、子育て、経済復興を手掛けられたことだと思います。また、バブル崩壊、リーマンショック後の厳しい経済情勢の中で年金の不安を常に抱えながら生活する方も多いのではないでしょうか。そのような苦労をしながら現代の便利で住みやすい時代を築き、鹿児島教会では昨年めでたく百周年を迎えることができました。そのような先輩たちにどのような思いで接していけばよいのでしょうか。
 ホワイト夫人の引用文の中に両親に対して親切をつくし、共に交わる必要性が強く訴えられています。そのお言葉を教会に置き換えると先輩に対して親切にするということではないでしょうか。それぞれの家庭環境がございますのでお言葉通りにすべてを行うことはできないかもしれませんが、私たちを守り育み、自分のことを二の次、三の次にしながら生きてこられた両親、諸先輩方へ敬意を捧げ続けたいものです。
 イエス様は新約聖書の中で次のように教えておられます。「モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。」マルコ7:10−13
 イエス様はパリサイ人と、ある律法学者たちに対して父母を敬うことを通して、形式やしきたりよりも神様の戒めに従うことがいかに重要であるかを教えられました。マルコ7章にしるされた話は、父と母に自分の財産を用いるのが嫌な人はコルバンという言葉を用いると自分の生きている間自由に財産を自分のために使い、父母に何も与えずに残ったお金を神様にささげるだけでよいという考えでした。そのような人の言い伝えとは逆に、神様は父母(先輩、年長者)を大切にするようにと教えて下さいました。
 自分が何もできなかった赤ちゃんの時、温かく支えてくれた親、成長を見守ってくれた親、悩みや辛さを抱える時に助けてくれた親、親子の関係は神様と私たちとのかかわりの象徴です。子どもが、そして若者が親、先輩、年長者に対してする親切はすべて神様に対する行為です。ときには親としての務めを十分果たせないこともあるかもしれません。しかし、間違いのないことは私たちの神様が私たちを常に温かく支え、見守り、助けて下さっていたということです。今も愛し続けておられるということです。この神様に感謝するゆえに私たちの両親、先輩、年長の方々を大切にしていきたいものです。池宮城義一

聖徒たちの復活
2012/8/11
 鹿児島教会では8月に合同偲ぶ会をしています。この集いはご遺族と共にすでに眠りにつかれた私たちの同胞を思い出すと同時にご再臨の時に出会えるという希望を確認し励まし合う集いであります。それで今回はエレン・G・ホワイト著『各時代の大争闘下巻』から復活後の生活について垣間見てみたいと思います。
「地がよろめき、いなずまがひらめき、雷がとどろく真っただ中で、神のみ子の声が、眠っている聖徒たちを呼び起こす。イエスは義人たちの墓をごらんになり、それから両手を天のほうへ上げて、『目ざめよ、目ざめよ、目ざめよ。ちりの中に眠る者たちよ、起きよ』と呼ばれる。地の全面にわたって、死者はその声を聞き、聞く者は生きる。そして、全地に、あらゆる国民、部族、国語、民族からなる大群の足音が鳴り響く。『死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか』と叫びながら、彼らは死の獄屋から、不死の栄光をまとって現われる(コリント第1・15:55)。そして、生きていた聖徒たちとよみがえった聖徒たちとはともに声をあわせて、勝利の長い喜びの叫びをあげる。
 どの人もみな、墓に入った時と同じ身長で墓から現われる。よみがえった群衆の中に立っているアダムは、背が高く堂々たる容姿で、神のみ子より少し低いだけである。彼は後世の人々とは、著しい対照を示している。この点からでも、人類の大きな退化がわかる。しかし、どの人もみな、永遠の若さの新鮮さと活力にあふれてよみがえる。世の初めに、人は、品性だけでなく、容貌や姿も神のみかたちにかたどって創造された。罪のために神のかたちはそこなわれ、ほとんど消えてしまったが、キリストは、その失われたものを回復するためにこられた。キリストは、わたしたちの卑しい体を造り変えて、ご自身の栄光の体に似たものとしてくださる。一度罪に汚されてしまって美を失い、死ぬべき、朽ち果てるべきものとなった体が、完全な、美しい、不死のものとなる。すべての傷や醜さは、墓の中に残される。贖われた者は、長い間失われていたエデンのいのちの木に再び近づくことを許され、最初の栄光に輝く人類の完全な背丈に『成長する』のである(マラキ書4:2英語訳)。罪ののろいの最後の痕跡が取り除かれ、キリストに忠実に仕える者たちは、知的にも、霊的にも、身体的にも、主の完全な姿を反映して、『われらの神、主のうるわしさ』を着て現われる。ああ、なんというすばらしい贖いであろう。これこそ長い間、語り、熱望し、熱心な期待をもって瞑想してきたが、しかし決して十分には理解できなかったことであった。
 生きている義人たちは、『またたく間に、一瞬にして』変えられる。彼らは、神のみ声によって栄化された。今や彼らは不死の者とされて、よみがえった聖徒たちとともに、空中において主に会うために引き上げられる。…小さい子供たちは、天使たちに抱かれてきて、母親の腕に返される。長く死に別れていた友人たちは再会して、もう永久に別れることなく、喜びの歌をうたいながら、ともに神の都へと上っていく。」(各時代の大争闘下巻423,424ページ)池宮城義一

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