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赤とんぼ
今、96歳のわたしの母が谷山の下福元町にあるガーデンハウス慈遊館でお世話になっています。そこに行きますと、赤とんぼの群れが飛び交う光景に出会います。小さいころ赤とんぼを追いかけた懐かしい思い出がこの歌と共によみがえります。

1.夕焼け小焼けの赤とんぼ、
    負われて見たのは いつの日か
2.山の畑の 桑の実を
    小かごにつんだは まぼろしか
3.十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き
     お里のたよりも たえはてた
4.夕焼け小焼けの赤とんぼ、
       とまっているよ 竿の先

 この歌ができたのにはこんな背景があります。それは作詞者(三木露風(ろふう))の経験の歌なのです。露風は明治22年(1889)、兵庫県の裕福な家に生まれました。しかし父は遊び人で家に寄りつかず、愛想をつかした母親かたは、露風が6歳のときに離婚し、弟だけを連れて実家へ帰ってしまいます。しかし長男露風は、三木家の跡継ぎとして残され祖父に預けられて育つのです。でもやがて、父は神戸に移り新しい家庭を持ちます。
このことは、幼くして父母の愛を失った露風にとってぬぐい去れない大きな痛みとなって心に残ったと思います。
 露風はのちに北原白秋らと共に詩人として称賛され活躍していきます。露風がこの赤とんぼを世に出すことになったのは、北海道のトラピスト修道院に国語の講師として赴任し、敷地内で妻と共に暮らしていたときでした。大正10年、露風は修道院の庭に飛ぶとんぼの群れを見て、「赤とんぼ」の詩を書き、児童雑誌に発表しました。そして、なんとその翌年1992年(大正11年)に露風はトラピスト修道院で洗礼を受けています。

 おじいさん子で早熟な少年時代を過ごした露風は、12歳の頃から文学に目覚めました。実は、この赤とんぼに歌いこまれた「赤とんぼ とまっているよ竿の先」という俳句は露風が13歳の時の作品なのです。20年を経て、あの幼かった時に見た赤とんぼが、やはり竿の先にじっと止まっているのを再び見たわけです。この時の露風は、独り取り残された自分と、ぼつんと竿の先に止まっている赤とんぼとを重ねていたのだと思われます。
 また露風の母かたは、碧川企救男(みどりかわきくお)という人と再婚しています。その後熱心なクリスチャンとなり、女性解放運動の先駆者として世に名を馳(は)せて行きます。露風はこの母の影響も強く受けていくのです。
 つまり、幼い頃の悲しい生い立ち、そして詩人として赤とんぼとの遭遇、
クリスチャンとなった母からの影響、
この全てがこの童謡「赤とんぼ」に込められているのです。
 「竿の先」ということばの中に、自分がやっと返る場所を見つけたという
思いを表したのです。「竿」とは、イエス・キリストの十字架です。どこに自分は返ったらよいのか。自分の拠り所はどこにあるのか。止まるところを探して飛んでいるとんぼのようだ。でも、やっと止まるところが見つかった。実は、そういうすごいメッセージが込められた歌だったのです。

森 博光


2014/10/13

運動会
 運動会が終わりました。園児たちも活き活き、いやご父母の皆様こそ我が子に向けるその視線のまぶしいこと。その成長ぶりに釘付けでしたね。

 ある記事で読んだのですが、中国の運動会には子ども全員は参加することが出来ないそうです。厳格な選抜式で成績優秀な子どもしか運動会の選手になれない。だから運動会も一つの授業で親たちがみんな働いている普通の授業時間に行われるとか。中国の親たちは運動会で自分の子どもの姿をほとんど見ずに終わるのです。なんだか溜息が出てしまいますよね。

 幼稚園でのいろんな行事がある中で(私はまだ一年間の行事を通しで経験していないのですが)運動会はピカ一なのでは…と、そう思っているのです。それは親もそして御爺ちゃん、御婆ちゃんも一緒に皆で参加できる運動会だからです。園児全員、教師、保護者がそれこそ一緒に協力して幼稚園の共同体を共に作る日、それが運動会なのです。日本の運動会は、一人ひとりの子どもの自己表現を通して、その子の素晴らしい個性を親も子も教師も共に発見する、そういう場なのです。
 そして運動会の花形、それはなんといっても「親子リレー」と「組体操」でしょう。私は黄色組のアンカー。「いつも園長先生は普通に走っちゃダメ、ダメ!」なんて言われたけれど、そん
な余裕なく膝ガクでゴールイン。いやぁー、私としては不覚でしたが、走る方も応援する方も、あんなに親子で
一致団結する競技はまずないでしょう。それと年長の「組体操」には感動でした。年少の時からず〜っとみて来られた親御さんにとっては、その思いはきっと一入(ひとしお)だったと思います。その成長ぶりに皆さん涙し見入っておられたのではないでしょうか。全部で10種類以上?の演技をちゃんとこなしきっちゃうんですから(^o^) ドミノ倒しは特によかった。
 残念だったのは、年長の親御VS年中・年少親御ミックス「つなひき」対決。勝たせてあげたいでしたね、年長の親御さんらに。確かにあちら側には重そうな御方々が…。でもそんなの関係なく駆け引きがあるそうです。

@基本的には前から背の高い順に並ぶ。
Aロープが先頭から最後尾まで真っ直ぐになるよう、等 間隔で並ぶ。
B右利きはロープの左側、左利きは右側に並ぶ。
C女混合の場合、男子、女子と交互に並び、先頭と最後 尾は男性にする。
D腰を低くし、眼は斜め上を見る。そうすれば自然に体 軸が後ろ傾きになり体重を利用しながら引ける。

 来年、年長確定のご父母の皆さま方、是非ともこの方法を採用お試しくださいませ。

 でも鹿児島三育幼稚園の運動会は「最高」でした。普段は見えないもうひとりの「私」を園児たちは見せてくれましたね。子どもは新しい「自分」、教師は新しい「園児」、クラスの園児は新しい「お友だち」、そして親は新しい「子ども」を発見できたのですから。皆さまのご協力に心から感謝致します。
 
森 博光
2014/9/29

阪神淡路大震災の時
 今、幼稚園は9月21日の「運動会」準備一色の日々。そしてご父母の皆さまにとっては、10月26日の「三育バザー」準備一色の日々。本当にご苦労さまです。私にとって活気みなぎるこの2学期、興味そそられつつもまずは、「運動会」での園長の始めの言葉・終わりの言葉にビビリながらの秒読み開始のゴングが鳴り渡っているところです。

 私事ですが、先日96歳の母を送りました。一人息子で育った私にとっては悼(いた)みの時でした。
思えばあの救出の時をきっかけとして、母との特別な19年間が与えられたのは恵みでした。その特別な始まりとは、1995年1月17日のあの日、阪神淡路大震災の日なのです。
 当時、長野にいた私は、早朝に教会員から電話を受けました。
「神戸で地震があったようですが、ご両親大丈夫ですか?」まだ夜明け前でしたが、急いで電話をしました。すると父が受話器の向こうで「別に大丈夫だけれど・・・」と慌てる様子もないのです。安心して受話器を切った矢先、再び電話が鳴り、「今、大丈夫と言ったが大変なことになっている、部屋の中がかしげっている(傾いている)、すぐ来てくれ!」との事。その後、交信は全く途絶えてしまいました。
 私はテレビに見入りつつ、それが実は大変な事態であることを認識させられたわけです。なんと神様は明け、しかもわずか数分の内に、必要な両親の安否情報だけは教えて下さったのです。“大丈夫!”と“すぐ来てくれ!”を。
私はさっそく祈りと共に車を飛ばしました。夕方ごろ大阪に着いたのですが、あとは身動き一つできず、とうとう夜が明けてしまいました。これからどうしたらいいのだろう、途方に暮れた私にまた確かな神様の導きが起こったのです。
 ふと気づくと、なんと目の前に道路公団の車が・・・。さっそく神戸に入る道を尋ねてみると、「昨日、神戸に入っていたんだ。有馬の方へ回ればまだ入れる」。こうして31時間後、やっと両親の元にたどり着いたのでした。その途中、もしかして通じればと公衆電話から家に電話をしたら通じた時は驚きでした(皆さん、これ覚えておくことをお薦めします。公衆電話は緊急事態でも回線が普通に繋がるのです)。再び両親の無事を確認し、私が近くまで来ていることを知らせることが出来たのですから・・・。
 あれから私は各転勤先で両親と共に過ごしました。父は11年前89歳で亡くなりましたが、母とは19年間(うち2年5ヶ月は施設で)一緒でした。それは、あの悲惨な地震の中で主が私と両親に備えたもう、感謝溢れるひと時でした。
聖書のことば『見よ、神はわが助けぬし、主はわがいのちを守られるかたです』(詩編54:4)。    
                     
森 博光
2014/09/08

ピーターラビット
 今日はヘレン・ビアトリクス・ポターについて書いてみます。ピーターラビットの生みの親といえばお分かりいただけるでしょうか。そしてピーターラビットといえば、お皿やコーヒーカップの絵柄で有名なあの絵本の主人公です。
ピーターラビットの物語は、ヘレン・ビアトリクス・ポターが病気療養中の親友の息子を慰めるために描かれたものだといわれています。この少年は4歳のとき小児麻痺にかかり、それ以後片足が不自由になるのです。たとえ体が不自由になっても、希望をもってほしい。そんな思いで彼女は少年を励まし続けたのです。この少年はその後牧師になりました。
 またポター自身も20歳ぐらいの時、リュウマチ熱にかかり、心身ともに辛い時期が続いていました。病気のせいで頭髪が抜け落ちたり、手足のひどい痛みで何ヶ月もベッドで過ごしたりしています。ですからポターは人の痛みの分かる女性だったのです。ポターは、あの小児麻痺の子供を励ますためにピーターラビット物語を書き続けたのですが、どこからそのヒントを得ていたのでしょうか。
実はこの物語には、キリストの受難と復活に魅せられての内容が盛り込まれ、描かれていると言う人がいます

「ピーターラビットの謎」
キリスト教図像学への招待 益田朋幸著

これは初篇「ピーターラビットのおはなし」からのあらすじですが・・・
「ある日ピーターの母は森で遊んでいる彼と彼の姉妹、フロプシー、モプシー、カトンテールを置いて市場へ出かけます。母の言いつけを破ってピーターはマグレガーさんの農場へ忍びこんで、野菜を食べてマグレガーさんに見つかり、追い回される。辛(から)くも逃げ出す事ができたのですが上着と靴をなくしてしまい、それはマグレガーさんの新しいカカシへ使用された」。
 腹を立てたマグレガーさんは、ピターの上着と靴でカカシ(すなわち見せしめに十字架)を自分の畑にかかげたとのくだり。また命からがら逃げ帰り、モミの木の洞穴で寝込むピーターは、十字架上で息絶えて埋葬されたキリストを表すこと。本当に磔(はりつけ)になったのは、身代わりの上着と靴で、ピーターは死なずにくたびれただけなんですが・・・。
 さらにピーターラビット物語には、コマドリが5回も大事なところに登場します。特徴的な赤い胸の鳥です。伝説ではこの鳥は初め全身茶色一色であったが、十字架に架(か)けられたイエス・キリストの側でいばらの冠を外そうとして、その際にイエスの血によって胸が赤く染まったというのです。ピーターラビット物語では、このコマドリが大事なところでいつもピーターを優しく見守るように描かれているのです。

 ピーターラビットシリーズは全世界で累計発行部数1億5000万部を超え、今なお、多くの人々に親しまれています。
キリスト教とは無関係でない物語が、このようにしてあることの不思議を思います。
  
森 博光

2014/08/25

おバカさん
 今日は「おバカさん」(角川文庫)の話を紹介します。
「おバカさん」といえば朝日新聞に連載された遠藤周作の新聞小説です。現代にキリストが来られたら、どんなお姿で、場所で、人々に現れるかを想像しつつ、コミカルに描いています。主人公の姓はボナパルト(フランスの英雄の末裔(まつえい)を匂わせ)、名前はガストン(あだ名ガス)。彼は隆盛兄妹の家に着いて客となるも、観光にも料理にも興味を示さず、散歩に出て捨てられていた老犬を拾って可愛がったりして、いったい何のために日本に来たのかと皆を不思議がらせます。
 彼は体が大きく顔が長く、動作や頭の回転が鈍い人物として描かれています。そんなガスが東京の夜の街に繰り出し、チンピラに絡(から)まれ、人に利用され、馬鹿にされていきます。しかし善良さが体からにじみ出ているので、人に好かれていくのです。
 ある日、兄の復讐のためにのみ生きる、肺病に冒された殺し屋、ヤクザの遠藤に出会うのです。そして、何とかその復讐をやめさせようと遠藤に付きまといます。遠藤にガス、ガスと軽んじられ、嫌われながらも、最後には仇(かたき)と死闘を繰り広げて瀕死を負う遠藤の身代わりとなり死んでいくのです。

 全国高校生読書体験記コンクールで、ある女子高生が賞を取りました。テーマは「ガストンとの出会い」。“おバカさんことガストン・ボナパルト。彼は決して神のような厳粛さ、近寄り難さを感じさせないような男である。特別なことは唯一、私の不得手であるものを特技としているのだ。それは「人を信じること」。私は幾度となく、人を疑い、自分の不遇を誰かのせいにすることで、解決しょうとしてきた。自己の誠実な姿勢を拒み続けたのだ。・・・傷つけられるのが恐く、人の薄汚さを信じるという保険をかけ、ショックを緩和できるように予備をしておくという、救いようのない人であった。そんな時、この本のページを捲(めく)るとガストンが私に溢れるばかりに語りかける。「人は深く愛している者にしか決して慈悲深くならない。また絆など存在することは稀(まれ)なのだ」と打ちひしがれてしまった時、考え過ぎではないか、上手くいかないのなら一か八か前向きになってみようかという気にさせてくれるのだ。ガストンの頑張りと全人類を愛する様を目の当たりにすると、自分の悲愴、涙など安っぽく、彼に申し訳なくなるのだ。しかし、そのたびに私を見捨てることが無かったあなたのおかげで勇気と人を信じる心を取り戻すことができました。”
 
 人生に自分のともした小さな光を、いつまでもたやすまいとする彼の姿に私も感動を覚えた一人です。

森 博光
2014/8/04

ある夏のPFCキャンポリー
 今日は終業式。一学期の区切り、長い、長〜い夏休みの始まりです。新任園長も、これでホット一休み。
教会ではパスファインダークラブ(PFC:ボーイスカウトのようなもの)というのがあって、隊員たち(小3から入隊可)は、8月2日(土)〜6日(水)まで全日本キャンポリーがあり、新潟に出かけることになっています。そしてPFCと言えばひとつの思い出があるのです。

 30年前、札幌の教会にいたとき北海道内のPFCが大自然のリゾート地、大沼国定公園で夏のキャンポリーを開いたときのことです。PFC恒例の行進や手旗信号などを一通りこなし休憩タイムになりました。これからは夕食準備までフリータイムです。隊員たちはクモの子を散らすようにどこかへ走り去っていきました。
 私は、これ幸いと昼寝を決め込み夢見心地になっていた時、2人の隊員(男の子)がけたたましく私の名前を呼びながら丘を駆け上がってきたのです。「どうしたの?」「先生!財布落としちゃった」と大変な落ち込みようです。
 御婆ちゃんからおこずかい2千円をもらってきたので、お土産を買いたかったらしいのです。サイクリングロードを二人乗り自転車で乗り回していた時、「あっ、何か動いた!」と二人がよそ見をしたその時、自転車は軌道を外れて草むらに突っ込みそれを戻すために悪戦苦闘。やっと軌道に戻ることが出来、終点まで走って支払をするとき財布を落としていたことに気づいたというのです。私は彼らに言いました、 「財布は見つかるよ。君たちが落とした場所はこの草むらしかない。神さまはその場所を知っておられる。祈ってから捜そう!」と。夕食準備まであと20分。戻ることを考えると10分がタイムリミット。彼らが神を知る絶好の機会だ、私はそう思いました。彼らは普通の公立小の子供たちで、友だち繋がりでPFCに来ていて神様にはまったく関心がなかったのです。
「最初僕が祈る。見つかったら○○君きみが祈るんだよ」。驚く二人を尻目に、彼らは向こうから、私はこちらからお互いが接近しながらの草むら捜索が始まりました。しかし彼らは頭から見つかるとは思っていないのです。よく捜しもせずにたちまち私の所に来てしまいました。「先生、ないよ!」と。
彼らと場所を交代し、私は向こうに回りました。私は神に食らいつきました、「神さま、ここで見つけさせて下さい。もう時間がありません」。そのとき何か柔らかい革のようなものに手が触れたのです。財布でした。「○○君、ほら見つかったよ!」「えっ、あった?」 このとき彼は生まれて初めて感謝の祈りを神様に捧げたのでした。大沼国定公園サイクリングロ−ドの草むらの中で、ひざまずき共に祈ったあの光景を私は忘れられないのです。

森 博光
2014/07/17

ある日の授業参観
 ご父母の皆さま、先日は保育参観のご出席本当にご苦労様でした。保育参観まえに、拙(つたな)い私(園長)の話にもお集い下さり耳を傾けて頂けたことに心より感謝致します。 その後、数人の方からあの「私の母ちゃん、バカ母ちゃん」の文章を“是非もう一度知りたいのですが…”との声がありましたので、改めて「園便り」にてご紹介させて頂きます。

 少し詳しい説明をしますと、このお話は元NHKアナウンサー相川浩さんの「ユーモア話術」という著書に載っている話なのです。かつてある県の山間部の小学校へ取材に行ったときの話だそうです。
そこで子供たちの「私のお母さん」という課題作文発表を聞くことになりました。一年生から六年生までの子供の自作朗読なのですが、どれもこれもどうも大人の手が入っているような優等生作文で、退屈し、眠気を我慢していたところ、この相川さんが思わず椅子から転げ落ちそうになります。
それは、五年生の子供が登場したときです。その子は、自作の題名を声も高らかに読み上げました。「私の母ちゃん、バカ母ちゃん」。
立派な母、素晴らしい母さんの賛歌が続いたあとに突如として「バカ母ちゃん」の登場です。会場からどよめきが起きました。

「私の母ちゃん、バカ母ちゃん」
私の母ちゃんは、本当にバカです。いつも失敗ばかりしています。炊事と洗濯を一緒にするから、煮物の途中でシャツを干そうとしていて、煮物がふきこぼれ、火を止めに走ろうとすると、竿(さお)に通しかけたシャツは地面に放り出されます。シャツは泥だらけ。そして、煮物の鍋はひっくりかえって、台無しです。「こんな私で悪かった。ごめんね、父ちゃん。勘弁な」
 すると、父ちゃんは、「バカだなあ」と言って笑います。そういう父ちゃんも、バカ父ちゃんです。
 いつかの日曜日、みんなが朝ご飯を食べていると、奥からあわててズボンと洋服を着ながら、カバンを抱えて茶の間を走り抜けていきました。
「ああ、もうだめだ。こりゃ、いかん」とか言って、玄関から飛び出していってしまいました。「まただね、しばらくしたら帰って来るからな」と、母ちゃんは落ち着いたもんです。すると案の定、父ちゃんは帰って来て、恥ずかしそうに、「また無駄な努力をしてしまった。日曜日だというのに、ハハハハ……」と言い訳を言っています。
 そんなバカ父ちゃんとバカ母ちゃんの間に生まれた私が、利口なはずがありません。
弟もバカです。私のところは、家じゅう皆バカです。
 でも、私は、そんなバカ母ちゃんが大好きです。世界中のだれより、いちばん好きです。私は大きくなったら、うちのバカ母ちゃんのようなおとなになって、うちのバカ父ちゃんのような男の人と結婚して、子どもを産みます。そして私のようなバカ姉ちゃんと、弟のようなバカ弟をつくって、家じゅうバカ一家で、いまの私の家のように明るくして、楽しい家族にしたいと思います。バカ母ちゃん、そのときまで元気でいてください。

 最初の題名に意表を衝かれた大人たちは、すっかり引き込まれたのでした。爆笑!やがて涙、そして感動が生まれたのです。  

森 博光

2014/06/26

勘違い
「勘違い」というものは誰もがする日常経験ですが、こんな話があります。
 陽ざしのさわやかな、ある初夏の日でした。一人の女性が、「昼休みに近くの公園まで出かけてみよう」と、思い立ちました。このところ仕事が忙しくて、ちょっと息抜きが必要と感じていたからです。
そこで、町のおしゃれなクッキー専門店に立ち寄り、好きなクッキーを念入りに選んで、焼きたてを一袋買い求めました。隣のコーヒー・ショップで、泡立ったカェ・ラテも注文しました。バニラ・パウダーを振りかけて・・・と。
 そよ風がわたる木陰で、眺めのいい公園のベンチに腰かけました。極上のコーヒーとクッキーをゆっくり味わいながら、お気に入りの雑誌を楽しむことにしました。なんて気持ちのいい午後なんでしょう。
 しばらくすると、一人の見知らぬ男がテーブルの向かいのベンチに腰を下ろしました。ページに目を落としたまま、彼女が一つ目のクッキーをほおばっていると、テーブルの上に置いたクッキーの袋がガサガサッと音を立てました。思わず雑誌から目を挙げた瞬間、向かいの男の手が、袋からなにかつまみ出した直後のような感じでした。と、男は目の前でクッキーを一切れ、口にほおり込みました。
 「まさか、そんな。人のクッキーに無断で手を伸ばすなんて。あり得ないことだわ」。でも、またしばらくして、ガサッという音がしました。そして今度は、男が彼女のクッキーを失敬する、その現場を目撃してしまいました。
でも、男はまったく悪びれるようすがありません。次から次に手を伸ばしてくるのです。彼女がムキになってもう一個とると男もまた一個と・・・。しかも、終始ニコニコ上機嫌で。
 彼女は激怒しました。でも、これほど臆面もなく人の物を盗む男に、面と向かって講義する勇気はありませんでした。
 とうとう、袋の中のクッキーは、最後の一枚になりました。それと知らず、ほほ同時に手を伸ばした二人は、どちらも同じ最後の一枚をつかみました。この時も男はニッと笑って、クッキーを二つに割り、その半分をあきれる彼女に渡し、残りは自分が食べてしまいました。
 怒りも限界にきた彼女は、席をけって立ち上がり、バッグをわしづかみに憤然とその場を立ち去りました。
 そのまままっすぐオフィスに戻った彼女が、読みかけの雑誌をしまおうと自分のバックを開くと・・・、そこには、手つかずのクッキーの袋が入っているではありませんか。
 男は彼女のクッキーを食べていたわけではなかったのです。つまり、彼のクッキーを食べていたのは、彼女のほうだったのです。にもかかわらず、その人は最後のクッキーまで、見ず知らずの彼女に分けてくれたのでした。
     百万人の福音より「昼休みのクッキー」
 
 何か深く余韻の残る内容ですね。勘違いを丸ごと包み込むホンモノの親切。
この人(男)は、どこにいても、そこを世界で一番居心地のいい場所に出来る人なのですね、きっと。   

森 博光

2014/05/30

秋は自然が変わり 春は人が変わる
 親子遠足も無事に終わりました。園児たちの顔もひときわ明るく輝いていましたね。私にとっても楽しい半日体験でした。皆さまのご協力にも心より感謝いたします。

 “秋は自然が変わり 春は人が変わる”と言われる通り、様々な出会いを経験する季節を園児も私たちも迎えています。私もよもや園長として鹿児島に赴任するとは思いませんでしたからね。
「教育の完結は出会いである」(ボルノー)と言われますが、しかし「出会いこそが人生」であることを思わせられます。
 特に幼児期の出会いの経験は、時にその生涯に決定的影響を与え、原体験として刷りこまれていくとも言われています。

 毎日でかけて行った子どもがいた
 彼が見た最初のもの
 そのものに彼はなった
 その日一日 あるいはその日のひととき
  あるいは何年もずっと長い歳月
 それは彼の一部分となった
 早咲きのライラックが
 この子の部分になった
 黄色と白と赤の朝顔が
 白と赤のクローバーが
 そうして小鳥のこえが
 それから生まれて三か月の仔羊と
 ピンク色の豚の仔たち
 小鳥と仔羊が・・・
 どれもみな彼の一部分になった・・・
   (ウォルト・ホイットマン『草の葉』より)

四月入園の子どもたちはまず保育者と出会います。保育者は子どもにとって好むと好まざるとに拘わらず人生最初の師となります。子どもたちはまた友だちと出会います。核家族化や塾通いの進む中で、園生活最大の魅力は友だちにあるのです。

 4月23日(水)は木市見学でした。三馬千尋先生を先頭に園児を引き連れ、私と家内はその後をくっ付いていきました。そこ(目的地)では人生真っ新(まっさら)の童たちほどに際立つものは皆無でした。
誰もかれもが微笑み見入り、植木売りのおばさんさえもその虜にされ、三百円でなんと7本もの苗を出血大サービスした程ですから。居合せた人々は自分の子ども時代を重ね、童たちのこれからの人生を応援してくれているのです。
帰りしなザビエル公園角を渡り切ったところに石壁がありました。一人の子が壁に背中を押し付けて「忍者、忍者・・・」と唄いつつ手を組みカニ歩き。すかさずその子を先頭に皆も壁伝いに「忍者、忍者
・・・」。ひまわり組の団結が最高潮に達した瞬間でした。

 生きているということ いま生きていると
 いうこと それはのどがかわくということ
 木もれ陽がまぶしいということ
 ふっと或るメロディーを思い出すこと
 くしゃみすること あなたと手をつなぐこと
      (谷川俊太郎『生きる』)
            
森 博光
2014/05/01

自分の弱さをうまく使う
 始業式と入園式も無事終わり、新しい学期が始まりました。外では園児たちが走り回り、私を見つけると数人(いや、まだ2人ほど)「園長せんせ〜いっ!」と駆け寄り話かけてくれます。今日から我が園児たちにお話です。さてさて、どうなりますか・・・。

 ところで自分は弱い人間だ、こんなことではどうにもならない、と思っておられる方いらっしゃいますか。山本周五郎の『ひとごろし』という題名の本があります。
ちょっとすさまじい題ですが、内容はそうではないのです。それは臆病な人が自分の弱さをうまく使っていく物語。
 福井藩士、双子六兵衛は臆病者で通っています。少年のころから、喧嘩口論(けんかこうろん)はしたことがない。危険な遊びもしたことがない。犬が嫌いで、少し大きな犬がいると道を避けて通る。乗馬は出来るのに馬が怖く、二十六歳になってもまだ夜が恐ろしい。ネズミを見ると飛び上がる。そんな風だから、みんなから馬鹿にされています。
 双子六兵衛は考えます。こんな風じゃ駄目だ。何か自分も武士としての仕事をしなければならない。そんな時、降って沸いたような仕事が見つかります。福井藩士に召抱えられていた剣術と槍の達人某(それがし)が喧嘩をして、殿様の小姓(こしょう)を切り捨て、そのまま藩を脱出します。殿様は怒って、その剣術指南役を追いかけて切れと命じますが、誰も応ずるものがありません。みんな指南役の腕を恐れたのです。その時、「私がやります」と申し出たのが、双子六兵衛です。六兵衛は、まともに立ち向かって勝てる相手ではないので、自分の弱さを使う作戦を立てます。
 六兵衛は、その犯人の泊まる宿屋の前で「この人は人殺しです」と叫びます。犯人が怒って追いかけてくれば、すぐ逃げます。犯人が茶店で休もうとすると、「この人は人殺しです」と叫びます。茶店の人も恐れて逃げてしまいます。犯人はお茶一杯飲む事ができません。ついに犯人は食事にもありつけず、眠ることさえ充分でなく、とうとう六兵衛に降参してしまうという筋書きです。全くおかしな小説で、吹き出したくなるのですが、この小説には作家山本周五郎の暖かみが感じられます。人間は己の弱さを武器にできる素敵な生きものであることを教えてくれているからです。
 
私たちは弱さを持ち、また未熟さそのままに親になります。でもその弱さ丸出しから、成っていく人生が備えられています。
聖書のことば『主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言われました』。

森 博光

2014/04/18

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