| 今、96歳のわたしの母が谷山の下福元町にあるガーデンハウス慈遊館でお世話になっています。そこに行きますと、赤とんぼの群れが飛び交う光景に出会います。小さいころ赤とんぼを追いかけた懐かしい思い出がこの歌と共によみがえります。
1.夕焼け小焼けの赤とんぼ、 負われて見たのは いつの日か 2.山の畑の 桑の実を 小かごにつんだは まぼろしか 3.十五で姐(ねえ)やは 嫁に行き お里のたよりも たえはてた 4.夕焼け小焼けの赤とんぼ、 とまっているよ 竿の先
この歌ができたのにはこんな背景があります。それは作詞者(三木露風(ろふう))の経験の歌なのです。露風は明治22年(1889)、兵庫県の裕福な家に生まれました。しかし父は遊び人で家に寄りつかず、愛想をつかした母親かたは、露風が6歳のときに離婚し、弟だけを連れて実家へ帰ってしまいます。しかし長男露風は、三木家の跡継ぎとして残され祖父に預けられて育つのです。でもやがて、父は神戸に移り新しい家庭を持ちます。 このことは、幼くして父母の愛を失った露風にとってぬぐい去れない大きな痛みとなって心に残ったと思います。 露風はのちに北原白秋らと共に詩人として称賛され活躍していきます。露風がこの赤とんぼを世に出すことになったのは、北海道のトラピスト修道院に国語の講師として赴任し、敷地内で妻と共に暮らしていたときでした。大正10年、露風は修道院の庭に飛ぶとんぼの群れを見て、「赤とんぼ」の詩を書き、児童雑誌に発表しました。そして、なんとその翌年1992年(大正11年)に露風はトラピスト修道院で洗礼を受けています。
おじいさん子で早熟な少年時代を過ごした露風は、12歳の頃から文学に目覚めました。実は、この赤とんぼに歌いこまれた「赤とんぼ とまっているよ竿の先」という俳句は露風が13歳の時の作品なのです。20年を経て、あの幼かった時に見た赤とんぼが、やはり竿の先にじっと止まっているのを再び見たわけです。この時の露風は、独り取り残された自分と、ぼつんと竿の先に止まっている赤とんぼとを重ねていたのだと思われます。 また露風の母かたは、碧川企救男(みどりかわきくお)という人と再婚しています。その後熱心なクリスチャンとなり、女性解放運動の先駆者として世に名を馳(は)せて行きます。露風はこの母の影響も強く受けていくのです。 つまり、幼い頃の悲しい生い立ち、そして詩人として赤とんぼとの遭遇、 クリスチャンとなった母からの影響、 この全てがこの童謡「赤とんぼ」に込められているのです。 「竿の先」ということばの中に、自分がやっと返る場所を見つけたという 思いを表したのです。「竿」とは、イエス・キリストの十字架です。どこに自分は返ったらよいのか。自分の拠り所はどこにあるのか。止まるところを探して飛んでいるとんぼのようだ。でも、やっと止まるところが見つかった。実は、そういうすごいメッセージが込められた歌だったのです。
森 博光
| 2014/10/13 | |